日本橋川に架かる橋2 復元近い常磐橋

2018年 08月21日

現在のHPのこと 
「HPをリニューアルするというので楽しみにしていたが、なんだ、ほとんど変わっていないじゃないか」というリピーターのお客様の声。
 以前のウェブサイトで5月頃から突然いろいろなことが起こりましたので、緊急に従前のHPを取り壊し、ほとんど同じパーツを使って別のレンタルサーバーで別のシステムを使い以前とそっくりのHPに組み替えました。これが現在のHP。リニューアルというよりも、「移行」と言った方が良かったかもしれません。
 時間の関係で、筆者が作ったトップページのスライドを1枚加えただけで、外観は以前とあまり変わっていません。少し「やっつけ仕事」という感はあります。(^_^;) 「這う這うの体」で逃げ出して、急場で仕上げた関係で、このようなものになりました。まあ勘弁してください。追い追い充実させていきたいと思っております。

常磐橋復元工事の現状
「ばらして組み立てる」という当会場のHPと同じ事をやっているのが、日銀本店前の日本橋川にかかっていた東京最古の洋式石橋、常磐橋の復元工事。このことは昨年5月に当欄で書きました(大手町散策3 常磐橋の石)。 
 国の文化財(史跡)である石造りの常磐橋は東日本大震災でかなりのダメージを受けました。そこで、解体して復元する段取りになり、解体した石のほとんどが平成25年の12月から日本橋川沿いの神田橋公園に保管されていました。同公園での保管期限(予定)が本年の3月末となっているにも拘らず、昨年5月の段階で保管している石が減っているようには見えませんでした。工事自体も常盤橋や川端の空き地から遠巻きに見るかぎり進んでいるかどうか分かりません。橋を壊しているか、石を積んでいるかさえも分かりませんでした。
 昨年10月末の工事現場の様子が撮影されているYouTube動画がありました。
   
 これを見ると、橋を支えていた支保工(しほこう:橋を支える仮設構造物)の上に乗っていた石がすっかりなくなっていました。昨年5月に支保工の上に石が乗っているのを見ていますので、そうすると東日本大震災から6年経過したあの段階でもまだ解体中であったということになります。文化財の調査等が難航していたのでしょうか。これでは神田橋公園の今年3月までの保管期限(公園閉鎖期限)は守れるはずはなく、今年の12月28日まで期限が延長されたのも、むべなるかなという感じです。期間の終了時点のところは、何度か変更があり、テプラの張替えがなされています。
 
 しかし今年の5月頃神田橋公園近くを通りかかったので、石の保管場所を覗いてみると、石が減っている気配。解体から復旧へと風向きが変わってきました。月遅れ盆前の8月12日に再度覗くと、保管してあった石のほとんどがなくなっていました。
 

 
 急いで常盤橋に行き、上の動画と同じ位置から常磐橋の工事現場を見てみると、輪石(わいし:アーチ石)がかなり積まれてきたようです。
 
 工事現場の囲いに工事の施行状況を知らせる写真が掲示されていました。
 
 こうなってくると復旧工事は加速します。天然石を使用してジグゾーパズルのように石を組み合わせていく作業は簡単ではないでしょうが、年内には復元した、眼鏡橋といわれる美しい2連のアーチ橋が見られそうです。

アーチ橋の原理と橋の架け方
 アーチ橋は、上に凸な弓なりの構造体を作って、その上の通路等の荷重を支える形式の橋です。平たい梁を垂直の橋脚で支える桁橋(けたばし)に比べて、荷重による「曲げ」が発生しにくいのが特徴です。また桁橋と同じくらいの断面であればより長い支間の橋が架けられ、川幅の広い川の架橋に適しているようです。
アーチ橋の構造力学上のポイントは下の図が分かりやすく説明できていると思います。上からの圧力を両岸に分散する力と輪石間の圧縮応力が端的に描かれています。大津市科学館のHPからの引用 
   
 このアーチ橋はどのようにして架けるでしょうか。少しラフですが、科学技術館内の「建設館」にある簡単な模型でトライしてみました。
 
①まず、輪石を支える支保工と云われる仮設の構造物を入れます。次に②アーチ(輪石)を両側から組んでいきます。
③④最後の輪石(要石:かなめいし)を入れ、支保工を取れば、アーチ橋の完成。

 もっと正確で分かりやすい詳細な説明は、「肥後の石橋」(熊本国府高等学校パソコン同好会)のWebページ参照。   
 上の模型に近いシンプルな形のアーチ橋は、お茶の水の聖橋の一部で、外堀通りの歩道に架かる部分にあります。コンクリート製の大きな部材を使ったアーチ橋です。
 
 上のアーチ橋のようなシンプルな形は珍しく、ほとんどのアーチ橋はアーチの内径が大きく、しかも天然石を加工した比較的小さな部材で構成されています。またアーチの形は真円でなく横長の楕円状のものもあります。一般的に見られるこれらのアーチ橋は、筆者の感覚からすれば、崩れ落ちないのが不思議なくらいです。
 圧縮応力を計算し崩れないような微妙なバランスで組まれているのでしょうか。100年以上前のアーチ橋でも頑丈です。
 
  アーチの上部がほとんど平たいアーチ橋(神田川の万世橋)。関東大震災(1923年)後、
  一度修復されたがいまなお現役。
 

  電車がその上を走ってもびくともしない日本橋川に架かる鉄道橋(竜閑さくら橋そば)

 アーチの高さ(アーチライズ)が低いアーチ橋は、アーチの形が必然的に横長の楕円形にならざるを得ませんが、そうすると、構造的に桁橋に近くなります。それでもアーチ橋の特性を保ち自重と外部の圧力による荷重を支点に伝達し橋を安定させるには石の圧縮の技術にあるように思います。
「構造力学」という学問のない江戸時代末期から九州地方で石造りのアーチ橋が多く作られています。これは橋を造る我が国の職人の経験によって編み出された石を圧縮する卓抜の高等技術ということでしょう。

肥後の石工(いしく)
          

 アーチ橋が高度な圧縮技術による石組みのバランスで出来ているとすれば、そのバランスを壊せば石橋は崩れ落ちるということになります。歴史的事実かどうかはわかりませんが、幕末の時代に薩摩藩はアーチ橋の石組みに長けている「肥後の石工」に石橋造りを依頼し、敵の攻撃から城を守る、いざというときのために橋を崩落させる仕掛けを造らせたといわれています(「肥後の石工」今西祐行著「九州の石橋をたずねて」山口祐造著他)。そして石工たちは「秘密の仕掛け」を知っているがゆえに、「永送り(ながおくり)」(暗殺)される運命にあったといいます。
「恩を仇で返す」理不尽な話で、日本人の感性に合わないような気がしますが、アーチ橋の設計や石組みが高等技術で秘伝的に継承されてきたことを示唆しています。
 肥後の石工集団は江戸末期に現れ高度な石組み技術で九州地区に石橋を架けていました。彼らの名声は全国に伝わり、全国各地からの石橋の架設工事要請があったようです。明治維新後の明治政府も当時「種山石工」と呼ばれていた肥後の石工集団に石橋造りを依頼します。当時の種山石工を代表する名工が有名な「矢部の通潤橋」を手がけた「橋本勘五郎」。
 
 橋本勘五郎を中心とする肥後の石工集団が東京で手がけた石橋の一つが現在復元中の常磐橋。その他明治に架けられた主要な石橋はほとんどが肥後の石工の手によるものだといいます。日本橋、浅草橋(旧浅草橋)、皇居の二重橋(旧二重橋)、江戸橋、神田橋、万世橋(旧万世橋)他。これらの西洋風の石橋が近代国家日本のイメージを形成し、今日の繁栄に繋がっています。
 それにもかかわらず肥後の石工集団のことが語られることはまことに少ないと言わざるをえません。世に偉人伝や英雄譚は多いですが、なにか成功者が美化され過ぎるのが通例であまり面白くありません。常磐橋の復元工事が完成した暁には「肥後の石工」の顕彰碑を建て、インフラの面から近代国家の礎を築いた「地上の星」に光を当てて欲しいと願っています。

   

 東日本大震災以前の常磐橋の写真は、千代田遺産 等にアップされております。
 ※訂正 2018.9.9
 「肥後の石工集団が東京で初めて手がけた石橋が現在復元中の常磐橋」と書きましたが、間違っていましたので、本文を訂正しました。肥後の石工集団が東京で初めて架けた橋は明治6年(1873年)に建設された万世橋でした。これは江戸時代の筋違橋(すじかいばし)が明治5年(1872年)に壊された後、その石材を使って架けられた眼鏡橋(2連のアーチ橋)でした。現在の万世橋は関東大震災(1923年)後の1930年に帝都復興事業の一環として架けられた石橋です。旧万世橋は現在の橋よりもう少し上流にあったとようです。
 常磐橋は東京最古の洋式石橋といわれていましたが、これは「東日本大震災までに現存している橋」ということを前提にした表現で、肥後の石工集団がこれを建設したのは明治10年(1877年)で、旧万世橋より4年遅れて架けられています。
 

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