爆発的に増えた貸会議室

2016年 10月12日

都内最激戦地区 神田の貸会議室

「貸会議室 神田」でネットを検索してGoogleの地図を見ると、当会場から400メートルくらいの距離には当会場以外に17の貸会議室がありました。実はここに表示されていない大小の貸会議室も数ヶ所あります。エリアを広げるとまだまだ沢山あります。神田地区はいまや東京駅八重洲地区と並ぶ、貸会議室の都内最激戦地区といってよいと思います。石を投げれば貸会議室に当たります。(笑)
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  20年前(平成8年・1996年)に当会場(フォーラムミカサ)をオープンした頃、このエリアの貸会議室は当会場(フォーラムミカサ)のみでした。千代田区でもビルオーナーさんが始めた民間貸会議室が淡路町に1ヶ所あっただけですが、当会場が創業してから1年半経過したころ廃業しましたので千代田区の貸会議室もしばらく当会場だけとなりました。
 このころ都内全体でも専業の民間貸会議場は数ヶ所しかありませんでした。創業のころ「貸会議室業」という業種はまだ公に認知されていないため、官庁等に提出する書類に「サービス業」と書こうか、「不動産業」としようかとかいろいろ悩んだことを思い出します。

フォーラムミカサ創業時の時代背景

 インフレ経済の加速(バブル経済)
 戦後の日本経済はある時期までは緩やかな右肩上がりのインフレ経済。給料も上がり、株価も上がり、土地の価格も上がりました。資産価値の上昇で多くの人が潤った幸せな古き良き時代でした。

 このインフレ経済は1986年(昭和61年)12月くらいから一気に加速し、1991年前半まで続きます。いわゆるバブル景気です。株も土地も暴騰しました。日経ダウは3年間で3倍になり、銀座の一等地がハガキ一枚の面積で5万円、山手線内側の土地でアメリカ全土が買えるなどと話題になりました。

 国債の発行残高が1000兆円超、プライマリーバランスがどうしたこうしたと騒がれる昨今と違い、この頃は国に金が余っていました。当時の竹下内閣は、地域振興のため「ふるさと創生事業」として地方交付税名目で全国の市町村に一律1億円を交付しています。使い道に条件をつけなかったため各地に無計画な箱物や町おこしの珍妙なモニュメントができました。無駄遣いと揶揄されました。

 このバブル景気の遠因は、巨額の赤字(財政・貿易)を抱えるアメリカとの貿易不均衡・摩擦を解消するために先進5カ国の蔵相・中央銀行総裁の会議で取り交わされた円高誘導のいわゆる「プラザ合意」に行きつきます。この「合意」後為替介入があり急速に円高が進行し、合意前1ドル250円であった円が1年後には150円に。その結果国内の輸出産業は大打撃を受け、円高倒産が続出し、日本は大不況に陥りました。

 この状況を脱するため日銀が行った低金利政策(公定歩合引き下げ)は見事に功を奏し、景気は回復しました。しかし景気が持ち直した後も低金利政策が続いたため、低金利で調達した資金で株や土地に投資をする人や企業が増え、バブルが発生したと言われています。株や土地は上がり続けるものとの日本人の確信的な意識が根底にあったのでしょう。特に土地については「土地神話」と呼ばれました。

 ビルの供給不足となった都心の土地には強欲な不動産屋が群がり「地上げ」が横行しました。都心の土地の高騰に悲鳴を上げた企業は、幕張や港区、江東区のウォーターフロント(臨海副都心)に本社や主要拠点を移していきました。

バブル経済の崩壊と貸ビル不況
 このような実体経済とかけ離れた土地や株価の高騰を懸念して、政府・日銀は1990年(平成2年)頃から「公定歩合の引き上げ」や「不動産融資の総量規制」、遊休地の課税等を行います。これにより投機目的の資金の供給が断たれた結果、異常に高騰した不動産や株は買い手を失い下落を続けます。土地神話は崩壊しました。バブル経済の破綻です。

 投機目的で多額の資金を借り入れした企業は軒並み倒産。貸した方の銀行にも膨大な不良債権の山ができ経営が悪化して金融機関の統廃合が起こります。バブルの崩壊は多くの業界に波及し、国内の消費も冷え込み、今日まで続く不況に連なります。

 日銀の公定歩合引き上げや政府によるドラスティックな不動産の各種規制によりバブル経済は終息しましたが、不動産業界を中心に景気は冷えに冷えました。都心のオフィス需要は急速に減少し、バブル期に計画された幕張、天王洲、台場等の臨海に新規の大型ビルができたこともあり、都心のオフィススペースは全体として「供給過剰」といわれる状況になりました。都心の貸ビルの需給関係が極端に悪化し、空室率が上昇し、貸ビルの賃料水準が下落の一途をたどりました。

 当会場創業時の1996年(平成8年)頃に、神田地区の中小のビルには空室が目立ち、ビルのテナントが全く入っていないビルもありました。あちこちで「テナント募集」の貼り紙を見かけました。このような状況の中で貸会議室フォーラムミカサは事業を始めました。
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 仔細に眺めると銀杏の木の間に隣の住商ビルの大きな袖看板があることに気がつきます。このビルの1階は、かつては太陽神戸銀行の店舗でした。太陽神戸銀行はバブル崩壊後三井銀行と合併し太陽神戸三井銀行となり、その後の名称変更で「さくら銀行」となりました。「さくら銀行」はその後住友銀行と合併し三井住友銀行となりましたが、当会場の創業のときが「さくら銀行」時代。バブル崩壊後の不況期に会場をオープンしたことがわかる写真です。何気なく撮った写真ですが、時代がトリミングされ写っていました。

 当会場の創業の動機と経営指針

 不況下の都心で、オフィススペースを縮小して会議場に窮している企業はたくさんありましたし、労組の集合場所や企業の研修場所の不足の声も耳にしました。そこで貸ビル不況で空室だらけの都心で低料金の「貸会議室」という事業を起こせば、会議場や研修会場を必要としている多くの企業や団体に貢献できるのではないかとの思いで立ち上げたのが、三笠ビルの「貸会議室フォーラムミカサ」でした。

 ただ、三笠ビルさんの協力はあったものの、事業は失敗しても良いという前提では行えません。神田には千代田区の区民会館という公共施設の会議室、総評会館等の準公共施設の会議室、東京YMCA等のホテルの営業として行っている会議室がありました。この中に割った入り成功を収める必要があります。そのためにはそれなりの覚悟と十分な戦略をもたなければなりません。

 当会場は徹底的に「低料金」にこだわりました。「低料金」というコンセプトは、なにか「安売り」というイメージがつきまといます。しかしバブル崩壊後の景気低迷の中で民間企業はオフィススペースを縮小していましたので、低料金で集合場所を提供することは、むしろ企業の社会的貢献性というからプラスに働くものと考えました。
 また「安さ」だけでは生き残れるはずはないので、公共施設ではできないサービスを洗い出し、これを実践しました。この点は「もてなしの心安かろう悪かろう」という過去のブログで書きました。

 会場の宣伝手段としては神田警察通り側に設置した袖看板が頼りでした。看板は恒常的な宣伝媒体として有効ですが、宣伝地域が限定されます。当時広域的な宣伝手段として電話帳の広告という手がありましたが、その更新時期が毎年3月でしたので、これを利用するために約9ヵ月待たねばなりませんでした。

 このような状況であっても、当会場の経営スタイルが好感され、大手のスーパーマーケットの会社や出版社、製薬会社等が会場を利用し始め、創業から半年くらいの間で営業ベースに乗り、その後千客万来の活況となりました。

 貸会議室増加とその経営スタイル

 創業から1年経過したころから、空室を抱えたビルのオーナーさんが当会場の活況を見てよく会場を訪ねてきました。窮状を脱するために「おたくのような貸会議室を始めたい」という方がほとんどでした。彼らの必死の形相にたじたじとなりながらも会場の設備や運営のことをいろいろ説明しました。このころから将来貸会議室が増えてくるという予感はありました。

 2000年(平成12年)くらいから貸会議室が都内のあちこちでできてきたようですが、本格的に増えてきたのは2005年(平成17年)くらいからでしょうか。インターネットの普及と軌を一にします。

 ネットによる宣伝力と貸ビル不況をマッチングすれば、「貸会議室のチェーン店化」という事業構想が見えてきます。大きな仕掛けです。
 新規貸会議室事業者は、空室という不良資産がIT技術による宣伝力で高収益の物件に化けるとの宣伝文句で空室を抱えた貸ビルオーナーに貸会議室運営の営業をかけます。遊休スペースの有効活用とかビルのバリューアップとかの甘言も貸ビル不況に苦しむビルオーナーサイドには有効でした。新規事業者はデフレ期に低コストで調達した都心の空きビルを貸会議室に変身させ、貸会議室を爆発的に増加させました。このような風潮は都心から郊外や地方都市まで広がり、貸会議室はいまや国内の一大産業となっています。

                 貸会議室のスタイル
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 このような事業者が貸ビル不況期のビルオーナーを助け、社会の新たなニーズ掘り起こし、また多くの雇用を創出して、景気回復の一翼を担ってきたことは評価されてよいとは思います。ただ問題はその経営スタイルです。
 このような事業者の経営スタイルはほとんど公共施設型。ゴミは持ち帰れ、動かしたテーブルイスは元に戻せ(原状回復)。中には清掃しろという例も。顧客を動かし自らの労力を節約しながら金儲けをする発想。

 公共施設の貸会議室は行政サービスで利用料はタダ同然の安さ。高い利用料金をとって運営する民間の貸会議室が同じスタイルで経営できているのが筆者には不思議に感じられます。空きビルの「有効活用」なる発想は、ビルオーナーや貸会議室事業者に著しく傾いた思考で、料金を払う利用者の便宜が考慮されていません。いくら宣伝文句を弄しても、利用者への愛が足りません。「貸会議室は増えたが、使える会場は少ない」というのが当会場利用者の一般的な意見です。

 上の2軸マトリクスを使えば、当会場がだとすれば、新興の貸会議室事業者の多くは。同じ「貸会議室」といっても当会場とは似て非なるものと思っています。

 当初は不況から生まれた「貸会議室」というという事業ですが、数年前から住友不動産、野村不動産、NTT都市開発等の超大手資本も参入。大型の会議場、立派な会議場の誕生です。上のマトリクスでは。これは社会的に活況となった貸会議室という事業のイノベーションともいえる形態。不況型の当会場とは全く土俵が違います。

 ただ施設や設備の豪華さに比例して利用料金が高いので、インフレが進行して利用者が金持ちになっていくことがその活況の前提になると思います。しかし金融政策が手詰まりとなった日銀が素人には分かりにくい苦心の金融政策でマネタリーベースを増やしても一向にインフレ目標は達成されません。バブル崩壊後の不況の傷跡はそれほど深いということでしょうか。物価上昇率がそう簡単に上がっていくとは思えません。消費税の増税によって再デフレ化も懸念されています。

 日本人の横並び意識から今後まだまだ貸会議室が増えてくることが考えられます。しかしバスに乗り遅れた人たちによる深謀遠慮を欠いた没個性の会議室は、貸会議室が供給過剰となった現在では勝ち目はありません。
 ┐(`~`)┌

 貸会議室のブームはすでに去っています。淘汰が始まるでしょう。

     一人ベンチャーズ かっこいい!

    

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