満州の丘に立ちて

2019年 01月30日

 フォーラムミカサ エコとは何の関係もない脱線話です。Manchurian Beatにまつわる話をスケッチ風に書いてみました。
エレキブームの中のManchurian Beat
 昭和46年(1971年)にベンチャーズの「さすらいのギター」という曲が日本でも大ヒット。エレキブームの中でベンチャーズの他の曲とは異なる哀愁を帯びたメロディーに多くの人が魅せられました。そのYoutube動画は12月のブログに貼りました。英語の曲名は「Manchurian Beat」、「満州の音」です。
 筆者は5年くらい前までは全く知らなかったのですが、ベンチャーズによって世界的なヒットとなるかなり前に(昭和38年=1963年)、この曲はフィンランドのバンド「ザ・サウンズ」によって発表され、北欧諸国を中心にかなりのヒットしたようです。従って、ベンチャーズのそれはサウンズのカバー曲ということになります。
 昭和38年というと東京オリンピックの前年。日本にエレキブームが到来したのは東京オリンピック後、ベンチャーズによってではないでしょうか。とすると、多くの人がこの曲を聴いたのはサウンズでなくベンチャーズの演奏でということになると思います。

本家 ザ・サウンズの演奏

 サウンズとベンチャーズの演奏と聴き比べると、サウンズの演奏の方が柔らかい感じがします。ドラム音も比較的静かでギターの音(リードギター・ベースギター)もはっきり聞えます。とても聴きやすい感じがします。ベンチャーズの演奏は「テケテケテケ」、シンバル バシンバシンの激しいロックンロールですが、サウンズの演奏はポップ・ミュージックといってもよいかもしれません。ギターについては、ベンチャーズがサウンズの奏法をそっくりまねているのがよく分かります。やはりこの曲の本家はサウンズでしょう。

 サウンズの曲名は、ベンチャーズの「Manchurian Beat」と異なり「Mandschurian Beat」となっていて、Manchurianの間にdsが加わりスペルが違います。調べてみると、後者はどうもドイツ語系のルクセンブルグ語のようです。英語表記のタイトルに外来語を入れることは特に変でもないですが、発音が少し違います。前者は「マンチュリアン」ですが、後者は「マンズチュリアン」。ただ意味は同じで、ともに「満州の 満州人」です。
 それではこの曲のタイトルにどうして満州という形容がついているのでしょうか。

Manchurian Beatのふるさとはロシア
 ザ・サウンズによって有名になったMandschurian Beatには実は原曲があります。
 日露戦争終盤、満州の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽)で日本とロシアが版図争いで激突しました。奉天会戦(明治38年=1905年)です。大軍を率いて南下政策をとる帝政ロシアに抗して遼東半島や満州の権益を守るという名目で、日本軍が総力戦で臨んだ大規模会戦です。日露両軍に短期間で多くの犠牲者を生みました。


図は司馬遼太郎「坂の上の雲七」(文春文庫)の巻末より編集・掲載 赤い文字や印は筆者

 ロシア軍の36万人に対し日本軍は24万人。しかも旅順攻囲戦で消耗している日本軍にとても勝ち目はないという状況であったといわれます。国力の限界です。しかし日本軍は優位の内に講和を結ぶため、陽動作戦に出てロシア軍を左右に散らし、大量に調達した新兵器の機関銃も取り入れ中央突破を図る作戦をとり結果的には成功し奉天を制圧します。上記右地図を見ると、本格決戦となった1905年3月6日から僅か8日でロシア軍を北方に押し返しています。

 この激戦でロシア軍の死傷者は約9万人(死者約8,700人)、日本軍の死傷者は約7万5000人(死者約16,000人)。短期間でおびただしい犠牲者が出ました。

 この会戦でロシア軍の軍楽隊長として従軍したイリア・アレクセエヴィッチ・シャトロフという人が1906年に「満州の丘のモクシャ連隊」(Мокшанский полк на сопках Маньчжурии)という曲を作りました。シャトロフが所属していた第214モクシャ歩兵連隊も大激戦となった日本軍との戦いで多くの犠牲者を出しました。この曲はそのときの戦友の死を悼んで作られたと云われています。サウンズのMandschurian Beatは、この曲をアレンジして作られたものです。
「満州の丘のモクシャ連隊」の曲調はワルツで、当初は歌詞無しの吹奏楽曲

 この曲はロシア全土に広がり、その後複数の歌詞が登場し、「満州の丘に立ちて」として(На сопках Маньчжурии)多くのロシア人に愛唱されるようになったといいます。英語のタイトルは「On the Hills of Manchuria」、もしくは「On the Manchurian Hills

 この曲はよく軍楽隊によって演奏され、軍歌という位置づけもあるようです。しかし基本的には悲しみの曲であり、ロシア軍の戦意高揚の曲とはいえません。戦場で友を亡くした兵士、息子を亡くした母親、夫を失った妻。悲痛の叫びが聞こえてくるようです。

日本版満州の丘に立ちて「戦友」
 奉天会戦は一般的には日本軍の勝利とされています。しかし海を渡ってきた日本軍が大陸の奥深いところまで進撃し、兵器や兵力を補充しロシア軍と戦い続けることは無理があります。旅順戦で消耗した日本軍は、ロシア軍の戦略的撤退によって勝ちを拾ったといえるかもしれません。薄氷の勝利です。
 会戦での死傷者の比率は日本軍の方が多く、死者はロシア軍を上回っています。「満州の丘に立ちて」より以前に(1905年)、日本でもこの凄惨な奉天会戦の記憶を留める哀愁に満ちた歌が作られます。「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の・・」でおなじみの「戦友」です。
 関西地方で流行し全国に普及したといわれます(ウィキペディア「戦友」)。

「戦友」は軍歌と云われていますが、同じ日露戦争時に作られた「水師営の会見(軍歌・文部省唱歌」、「廣瀬中佐(軍歌・文部省唱歌)」のような勇ましい歌とは趣を異にします。「士気が下がる」「厭戦的である」として「戦友」は太平洋戦争時には禁歌とされましたが、実際には歌うことが黙認され、国民から愛され続けたといわれます。
 戦争の悲惨さや残酷さが随所に表現されているため、この歌を反戦歌非戦の歌ととらえる考えもあり、「軍律厳しき中なれど」という歌詞が「硝煙渦巻く中なれど」と軍部によって替えられたということもあるようです。しかし、14番という長い歌詞全体を見る限り反戦歌とまでは云えないように思います。特殊な戦時歌謡でしょう。

歌声喫茶の定番曲に
「満州の丘に立ちて」(На сопках Маньчжурии)には、ロシアで数種の歌詞が付けられました。その中でも1926年に発表された、アレクセイ・イワノヴィチ・マシストフの兵士を悼む歌詞が最も有名で、日本でもこの訳詞の歌が戦後、新宿・歌舞伎町にかつてあった「歌声喫茶」でよく歌われたようです。笹谷榮一郎氏の訳詞と曲は次の二木先生のサイト参照。二木紘三のうた物語 
 歌声喫茶は戦後の1955年(昭和30年)に新宿・歌舞伎町にできた「(ともしび)」、「カチューシャ」が走りとなって全国的に広がった喫茶店の形態。「うたごえ運動」という戦後の社会運動・政治運動を背景に労働運動・学生運動の高まりとともに歌声喫茶の人気が上昇したといいます。そこでは連帯感を求めて皆で声を出し、労働歌、反戦歌、ロシア民謡などが歌われました。
 1970年の日米安保闘争後にうたごえ運動は急速に退潮となり、カラオケブームなどもあり歌声喫茶も続々と閉店していったようです。筆者も歌声喫茶ブームの末期に、山小屋風の「灯(ともしび)」で、歌集を片手にロシア民謡を歌った記憶があります。
「満州の丘に立ちて」は加藤登紀子さんのCD「ロシアのすたるじい」にも収録されているようですが、歌声喫茶で何故ロシアの歌が好んで歌われたかはいまだによく分かりません。

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