神田と御茶ノ水の間にあった駅

2014年 05月08日

  会場を利用しているお客さまから「ここから歩いて行ける観光スポット」を尋ねられることがあります。これまで神田明神、湯島聖堂、皇居東御苑、将門の首塚等を紹介してまいりましたが、昨年秋からこれに「旧万世橋駅」が加わりました。JR中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間にあった駅です。
神田と御茶ノ水の間にあった駅 旧万世橋駅を利用して地上2階の商業施設「マーチエキュート神田万世橋」が昨年9月にオープン。秋葉原の新たな観光スポットとして注目を集めています。万世橋駅の歴史を紹介する展示物が随所にあるだけでなく、かつて駅のホームとして使用された所を展望デッキ(2013プラットホーム)として整備してあるのがなんともユニーク。ここでJR中央線の上りと下りの電車が行き来する様子を間近で見ることができます。

ホーム(展望デッキ)に上がる階段は駅の遺構ですが、駅開業時(1912年)からある「1912階段」も駅閉業以来70年ぶりに公開されました。関東大震災や先の大戦の東京大空襲にも耐えた100年以上も前の階段の迫力に圧倒されます。
マーチエキュート「マーチエキュート神田万世橋」の概要は東日本鉄道文化財団のサイトからご覧いただけます。
http://www.ejrcf.or.jp/mansei/

 「えー! こんなところに駅があったの?」と驚く方も多いのですが、万世橋駅の開業は明治45年(1912年)。神田駅や東京駅よりも早いのです。

 駅のあった須田町交差点界隈は、かつて東京でもっとも賑やかで大きな繁華街。江戸時代に神田川の水運を利用して青果商が集まり近くに大きな青物市場(やっちゃ場)ができ、神田川の川岸には米や薪炭の問屋も集まっていました。明治に入ると羅紗屋(舶来の生地をテーラー等の注文に応じて切り売りする服地商)が軒を連ね、飲食店、寄席、映画館等も繁盛したようです。

  交通の面でも江戸城から上野の寛永寺向う道(御成道)が万世橋の傍にあり、明治以来、東北方面へ向かう長距離乗合馬車の溜まりとして東京市内の交通の要衝となったのが万世橋前の須田町交差点(現在の須田町交差点より約100メートル北側)。ここは東西南北に走っていた路面電車(東京市電)が集まるまさに市電のハブともいえる場所であったようです。

 須田町交差点には、日露戦争時に旅順で戦死し「軍神」と謳われた広瀬中佐の銅像も設置され(明治43年)、東京を代表する景観として東京名所と言われました。
須田町の賑わい 明治37年(1904年)当時、中央本線の飯田町停車場(現在の飯田橋駅東南にあった駅)からお茶の水まで路線を伸ばしていたのが民間の甲武鉄道。この甲武鉄道が中央線のターミナル駅(始点・終点)として企画したのが立地条件の良い万世橋駅。路線建設中に鉄道が国有化されたため、万世橋駅は開業時には国鉄の駅となりました。
万世橋駅 開業記念    明治四拾五年四月一日萬世橋驛開業記念 (驛前の盛況)

  東京の一等地に建てられた万世橋駅の駅舎を設計したのは、日銀本店等を手掛け明治建築界を君臨した辰野金吾氏。赤レンガ・石積の2階建の駅舎にはルネッサンス式の壮麗な装飾が施され、中央線ターミナル駅にふさわしい威厳・豪華さが感じられる駅となりました。後に辰野氏の設計で建設された中央停車場(東京駅)の習作ともいわれています。2階には三つの食堂も造られ、芥川龍之介や菊池寛という文士の集うサロンとなっていたという逸話もあるようです。

 ターミナル駅として建設されたので、駅北側の神田川(外堀)沿いに造られた高架線には長短2面のホームが設置され、電車用と長距離列車用の使用が想定されていたようです。
万世橋駅 ホーム

    左上は御茶ノ水方面から、右上は神田方面から見た万世橋駅開業当時のホーム
肉の万世から  「肉の万世 本店4階」からみた現在の旧万世橋駅。右の長距離用線路にホームの痕跡はありません。現在は電車の留置線。中央線と総武線の電車が同時に走っているところが撮れました。

  このように華々しくデビューした万世橋駅ですが、華やかな時代は長く続かず、ターミナル駅としての機能をほとんど果たさないまま31年で駅閉鎖という運命を辿ります。

 「①新橋と上野を結ぶ市内縦貫線の建設②その中間に両駅を統合した中央停車場の設置」という内務省の鉄道計画に沿って、万世橋駅開業の2年後の1914年(大正3年)に東京駅が完成。さらに神田駅もでき、1919年(大正8年)3月、高架線の万世橋駅・神田駅間が開通すると、中央線の起点(ターミナル)は東京駅に移されることになり、中間駅となった万世橋駅は開業後わずか7年足らずでターミナル機能を失うことになります。

  1923年(大正12年)の関東大震災では万世橋駅の駅舎が焼失し、簡素な駅舎に建て替えられます。しかし、震災後の復興計画で1929年に(昭和4年)須田町交差点が東南側に移転すると市電も通らなくなり、乗降客が減って駅勢が急速に失われ、1936年(昭和11年)に駅舎は解体縮小。駅舎の跡に東京駅から鉄道博物館(後の交通博物館。現在は大宮に移設)が移転。戦時中の1943年(昭和18年)駅は休止(実質的には廃止)という結末を迎えます。

 戦後はGHQの神道指令に基づく東京都の処置で広瀬中佐の銅像もなくなり、旧須田町交差点付近は閑散とした裏通りと化してしまいました。
須田町交差点 左上は関東大震災後に再建された簡素な駅舎。右上は万世橋駅の駅舎跡に建てられた開業時の鉄道博物館(後の交通博物館)。後方に昭和7年(1932年)に御茶ノ水・両国間の架橋工事が完成した総武線の高架橋が見えます。これにより中央線と総武線が繋がりました。

  万世橋駅は当初の路線計画の段階から新橋から上野までの市内縦貫線への接続が予定され、鉄道網が東京駅に集約されて、ターミナル機能を失う可能性があるのになぜあのような豪華な駅舎が建設されたのか。万世橋駅に長距離列車用のホームを造ったのに、結局長距離列車は発着されず、発着場所が飯田町駅から移されることがなかったのはなぜか。万世橋駅建設には謎があります。

 明治39年(1906年)に鉄道国営法によって鉄道が国有化される前は、官設鉄道の他に民間鉄道(日本鉄道、甲武鉄道、総武鉄道)がありました。政府の指導はあったにせよ各社の事情によりバラバラにターミナル計画を立てたため、統一的な路線網が構築できず、鉄道の国有化後の状況の変化に対応して徐々にインフラとしての鉄道が整備されてきた過程のエピソードとして、万世橋駅の歴史は今後も語られていくものと思います。

新橋から上野までの市内縦貫線は現在山手線の一部になりましたが、万世橋駅を市内縦貫線にはめ込むには場所的に難点があります。神田駅、秋葉原駅ができ、鉄道網が整備されていく中で、かつて交通の要衝として栄えた万世橋駅付近の求心力が低下していったのも、むべなるかなという気がします。

  戦後靖国通り沿いの露店にあったラジオ街が秋葉原に移り経済成長のなかで電気街として大きく栄え、その傍にある旧万世橋駅に再びスポットが当たってきました。万世橋駅と外堀が見える空間は東京屈指の名景観ではないでしょうか。橋からお茶の水方面を眺めると中央線、総武線、東京メトロ丸の内線の電車が同時に見えることがときどきあります。振り返って反対側を見れば山手線、京浜東北線が走っています。しばし佇み風景に見とれることもあります。

 神田駅と御茶ノ水駅の間には、実はもう一つ駅がありました。御茶ノ水から高架橋を延伸して万世橋駅を建設するまで約7年かかるため、途中の紅梅河岸高架橋の上に造られ、4年間営業した昌平橋駅(仮駅)です。駅舎は建設されず、万世橋駅が開業すると廃止されました。

昌平橋 仮駅

万世橋駅 建築中  上は昌平橋仮駅 明治41年4月撮影 作者 日本国有鉄道 下はアーチ構築中の万世橋高架橋 明治42年撮影 作者 日本国有鉄道 文字・矢印は筆者 両者とも「新永間建築事務所初代工事写真集」より 昌平橋 駅跡              昌平橋駅跡  左隣が損保会館

  フォーラムミカサエコのある外堀通りを北に真直ぐ進み、淡路町の交差点を越えると昌平橋がすぐに見えてきます。昌平橋のすぐ右側が旧万世橋駅です。ちょっと足を延ばして歴史の風を感じてみませんか。

 ※主要参考文献 図説 駅の歴史 東京のターミナル(交通博物館編) 河出書房新社 2006年発行

 鉄道のプロの編集による力作です。下敷きのように使わせていただきました。
駅の歴史

※     写真は筆者が撮影したもの、作者名を表示したもの以外は「復刻版 絵はがき」を使用しました。この絵はがきはマーチエキュート神田万世橋内の店で販売されています。歴史の一コマを切り取ったような画像がなにか語りかけてくるような・・・。

            

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